弍:魂って上に行くだけじゃない気がする

昔からよく聞くじゃない?「魂は成長していくものです」っていう話。輪廻転生を繰り返して、経験を積んで、少しずつ上の段階へ進んでいく、みたいな。私の実家も仏教と神道だから、その考え方自体はすごく馴染みがあるのよね。生まれて、経験して、学んで、また生まれて——それを繰り返していくうちに、魂は成熟していく。いわゆる双六みたいなイメージ。
ここまでは、いろんな宗教やスピリチュアルの話とも共通していると思うのよ。でもね、私はそこに少しだけ違う感覚を持っていて、「ただ上に行って終わり」という話ではない気がしているの。
魂は“直線”じゃなくて“循環”している気がするの
よくある説明って、どうしても一直線なのよね。下から上へ、未熟から成熟へ、そして最終的にどこかに到達する。でも私の中では、魂ってもっと大きな循環の中にあるものに見えるのよ。
人としての経験を重ねた魂は、やがて人という枠を超えた存在になる。それは神とか仏とか、そういう言葉で表現されるものかもしれない。でも、それがゴールかというと、どうもそういう感じがしないのよね。
“個”を超えた先にあるもの
さらにその先には、「誰か」という形すら持たない状態がある気がするの。人格でもなく、意識の主体でもなく、ただ在るだけのエネルギーのようなもの。名前もないし、区別もない。ただ存在している状態。
ここに来ると、もう「成長した」とか「完成した」とか、そういう言葉すら当てはまらないのよね。
でも、そこが終わりじゃないのよ
で、ここからがちょっと面白いところなんだけど、その状態が終わりではない気がするのよ。その“ただ在るもの”が、また新しい流れを生み出していく。エネルギーが分かれて、新しい魂のようなものが生まれて、また世界に出ていく。
イメージとしてはこんな感じね👇
生まれる
↓
経験する
↓
成長する
↓
統合される
↓
また生まれる
この流れが、どこかで終わるわけじゃなくて、ずっと続いている感じ。
ゴールじゃなくて、流れそのもの
だから私は、「どこかに到達すること」にはあまり興味がないのよね。むしろその途中で何を感じて、どう在るかの方がずっと重要に思える。一直線に上を目指すというよりも、この循環の中にどう存在しているか、みたいな。
この考え方って、ヒンドゥー教のブラフマンの概念とも少し重なる気がするんだけど、私はあくまで感覚としてそう捉えているのよね。
意図のない流れ、ただの動き
あともう一つ大きいのは、その流れ自体に「意図がない」と感じていること。何かを成し遂げようとしているわけでも、誰かを導こうとしているわけでもない。ただ自然に、分かれて、流れて、戻って、また分かれる。
本当に、呼吸みたいなものなのよ。
吸って、吐いて、また吸って。そこに目的はないけど、確かに流れはある。
神もまた、途中のひとつかもしれない
こう考えるようになってから、神という存在の見え方も少し変わったのよね。絶対的な支配者というよりは、その大きな流れの中にある一つの段階、という感じ。
そして私たちもまた、その流れの中で一時的に形を持っている存在にすぎない。
だから少し楽になるのよ
こういう見方をすると、不思議と肩の力が抜けるのよね。どこかに行かなきゃいけないとか、何かにならなきゃいけないとか、そういうプレッシャーが少し薄くなる。
結局のところ大事なのは、この流れの中で「自分としてどう在るか」だけなのかもしれないな、って思うのよ。
それだけで、十分なのかもしれないわね。






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